チンチラ乱獲の歴史とチャップマン氏に連れられ海を渡ったチンチラたち
チンチラの故郷は、南米大陸のアンデス山脈地帯の西側の山麓領域です。
化石の研究によると、野生動物のチンチラは古代よりアンデス地方にのみ生息してきた固有の動物で、もともとは南米の北部から南部までアンデス山脈西側全域に分布し、海抜3000~5000メートルの傾斜のある岩場に生息していました。
現在では、野生のチンチラはわずかに生息するのみで、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(通称「ワシントン条約」)の、最も絶滅の危機に瀕している分類の附属書 Ⅰ( CITES Ⅰ )に記され、野生のチンチラの捕獲はもちろんのこと、生死にかかわらず輸出や輸入も原則として禁止されています。
現在、私たちが飼育できるチンチラは、海外または国内で繁殖された子たちで、遡ると20世紀初頭にチリ北部のポトレリーヨス近辺で鉱山技師として働いていたアメリカ人のマティアス・F・チャップマン(Mathisas F.Chapman)氏によってアメリカに連れ帰られたオス8匹、メス3匹の子孫といえます。
チンチラについて知識を深めるためには、野生のチンチラの故郷のこと、チンチラの歴史についても知っておかないといけないな・・と思って、この記事ではチンチラの歴史について紹介したいと思います。
チンチラ乱獲の歴史
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人間とチンチラの共存状態がうまく保たれていた時代
チンチラが初めて人間の歴史に登場したのは、西暦1300年前後のことです。
その頃、現在のチリの北部に当たる海岸に、チンチャ(Chincha)という先住民部族が住んでいました。彼らは主に漁業で生計を立てていましたが、口伝史に伝えられる「戦士の時代」に突入し、資源や富を奪い合って、戦争と死者が絶えない状況から逃れるために山へ逃れ、チンチラが生息する高地に移り住むようになりました。
それまで、魚を食べて動物性タンパク質を摂取してきたチンチャの人々は、代わりに高地に生息するアグーチやパカ、ビスカチャ、チンチラなどの動物を捕まえてその肉を食べ、毛皮は衣類や寝具などに使うようになりました。
とくにチンチラの柔らかくて丈夫な毛皮は珍重され、縫い合わせてじゅうたんの代わりや寝床の敷物に使っていたようです。
インカ帝国に併合されチンチラの毛皮製品は王侯貴族にのみが使用できるシンボルに
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100年に渡り続いた「戦士の時代」も、ペルーから南下してきたインカ(Inca)族によって終止符が打たれます。
1400年頃にインカ族は、先住民部族のチンチャが暮らす全領土を占領し、インカ帝国に併合しました。これによって、チンチャ族の人々はインカ帝国の支配下となったのですが、畑や作物といった色んな貢ぎ物を強要されたものの、チンチャ族の行政や宗教、文化などはそのまま存続することができました。
ただし、ひとつだけ禁止されたことがあります。それは、チンチャ族がチンチラの毛皮製品を使用することでした。
チンチラの毛皮があまりにも上等なので庶民が使用することを禁止し、王侯貴族のみに使用が許されたインカ王侯貴族のシンボルと定められました。
チンチャ族の人々はインカ帝国の支配下におかれてもチンチラを食べることはできましたが、毛皮だけは支配者のインカ族に納め、王侯貴族は、身分の証として、チンチラの毛皮マントなどを身にまとっていたようです。
インカ帝国の支配下でもチンチャ族は栄え、繁栄の絶頂のときにはインカ帝国の人口が1000万人を超えたといわれていますが、支配下のどの部族も必要以上には動物を捕獲しなかったので、うまく共存状態が保たれていました。
そんな平穏な状態は長くは続かず、スペイン人の征服者、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の上陸によって崩壊されてしまいます。
チンチラ乱獲の歴史の始まり
チンチラが乱獲されるようになり、絶滅寸前までに追い込まれるきっかけとなったのは、スペイン人の征服者、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)によって1533年にインカ帝国が滅ぼされた後に、チンチラの美しく上等な毛皮製品がスペイン女王の手に渡り、心を魅了させたことに始まります。
一説によると、本来スペイン女王に渡されるはずだった贈り物はチンチラの毛皮ではなく、金銀宝石だったのですが、スペイン女王への贈り物が詰められた箱を船に乗って本国へ届けるよう命じられた下級兵士が、長い船旅の間に箱を開けて中に詰められていた金銀宝石を盗み、代わりにその箱を包んでいたチンチラの毛皮で作られた敷物を箱の中に入れて女王の使者に渡したのだといわれています。
ところが、箱を開けたスペイン女王は、初めて見るチンチラの毛皮のしなやかさや軽さ、光沢にびっくりして、この美しいチンチラの毛皮こそが自分への贈り物だと信じて疑わず、とても喜びました。
そして今度は、スペイン女王の美しい毛皮を見た宮廷の女たちがこぞって「同じものが欲しい」と知り合いの軍人などにせがむようになり、金銀宝石だけではなくチンチラの毛皮も探し求められるようになったのです。
チンチラ狩りで生計を立てるチンチイェロ(chinchillero)の登場
こうして、「チンチラの乱獲の歴史」が始まりました。
チンチラの毛皮の売買で儲けたのは侵略者たちでしたが、実際にチンチラ狩りを行っていたのは地元の先住民族の人々でした。彼らは、チンチラ狩りで生計を立てるチンチイェロ(chinchillero)となって、一生懸命チンチラを探すようになります。
犬やフェレットを訓練して使ったり、チンチラの棲む岩場に火を焚いて煙でチンチラを巣穴から追い出したり、岩場の代わりにチンチラの棲み家として利用されたカルドネス(cardones,Puya berteriniana)を破壊したり、手鏡や針金、罠を仕掛けるなど、どんどんチンチラを捕まえる方法もエスカレートしていきました。
毛皮貿易の本格化
チンチイェロから狙われるようになったチンチラたち。
1818年にチリが独立し植民地支配が終わった後も、チンチイェロの人々がチンチラ狩りをやめることはありませんでした。
ヨーロッパでのチンチラ毛皮の需要が増大して毛皮貿易が本格化し、アンデス山脈で暮らすスペイン人や先住民にとって、またとない儲けのチャンスとなりました。
ファッション界でチンチラ毛皮のコートが大流行したこともあって値段が急騰し、ますます多くの住民がチンチイェロとなってチンチラを探すようになったのです。
チンチラ絶滅の危機へ
こうした広範囲にわたる絶え間ないチンチラ狩りの影響で、チンチラの数がどんどん減っていきました。
毛皮量が減少したことで、国際市場は刺激され値段が跳ね上がりました。この価格の上昇が、チンチイェロたちをさらに刺激し、彼らはますますチンチラ狩りに力を入れるようになったのです。
より効率の良い捕らえ方も発案され、高い値段のおかげで、チンチイェロたちは捕れる数が少なくても生活できるようになりました。
こうしてチンチラは、山麓や入りやすい山地から消え、やがて人里から離れた場所からもいなくなってしまったのです。
毛皮の輸出量の記録
チンチラの飼い方などについて記されたRichard C.Goris 氏の「ザ・チンチラ」(誠文堂新光社 発行 / 2002年)の中で、Jaime E.Jimenez博士によって発表された、野生のチンチラについての内容がふんだんに紹介されています。
その中にはチンチラ毛皮の輸出量について調査した内容も含まれているので、説明したいと思います。
このグラフは、「ザ・チンチラ」(Richard C.Goris 著 / 誠文堂新光社 発行 / 2002年)を参考に作成したもので、チンチラ毛皮の商業的な利用が始まった1830年代から、事実上輸出がストップした1917年までのチンチラ毛皮の年間輸出量を示しています。
Jaime E.Jimenez博士によって古い記録やチリ国立統計局のデータを調べられたものですが、
ようで、輸出の統計だけでは実際に殺されたチンチラの数を知ることはできず、ここにあげる数字は実際よりもかなり少ないものと思ってほしいと述べています。1810年頃まではチンチラの商業的利用は少ないものでしたが、その後毛皮の輸出は1830年代の年平均2800枚から1900-1909年の平均25万4000枚まで増えていきました。
最もピークだったのは1900年の70万枚で、1905年には21万8000枚まで減り、1910年には2万4600枚でした。
チンチラの乱獲が最もひどかった1885年から1910年までのわずか25年間で、チンチラはほぼ絶滅してしまいました。
1917年にはわずか365枚が報告され、事実上輸出は止まったのですが、1840年から1916年まで合計700万枚の毛皮がチリから輸出されたことになり、この数字は様々な要素を計算にいれると、2100万匹もの野生チンチラが殺されたことを示唆していると述べています。
チャップマン氏とアメリカへ渡ったチンチラたち
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チンチラの歴史が書かれている書籍に度々登場する、マティアス・F・チャップマン(Mathisas F.Chapman)という名前。
マティアス・F・チャップマン氏は、海抜3500メートルほどにあるチリの銅山で鉱山技師として働いていた人物で、チンチラが絶滅寸前に追い込まれていた1918年に、チンチイェロから空き缶に入れられた一匹のチンチラを買い取ったことがきっかけで、チンチラの被毛の美しさと素直な性格に心を奪われ、4年がかりでようやくメス3匹・オス8匹の計11匹の野生のチンチラを捕獲し、輸出許可を得てアメリカへ連れて帰ってチンチラの産業的繁殖を始めた人物です。
赤道直下の海を渡ってカリフォルニアへ
一匹のチンチラに出会ってから、この素晴らしい動物をアメリカに持ち帰って繁殖させ、絶滅から救い、ペットとして売り、さらに新しい毛皮産業の土台にしようと夢を膨らませたチャップマン氏。
チンチイェロを数人雇って捕れるだけのチンチラを捕まえてくるよう命じ、チャップマン氏自身も一緒になって高山のあちこちを探索してまわり、4年かかって11匹を捕獲しました。
鉱山技師としての滞在期間を終えた1922年、チャップマン氏は大きめの木製のケージを作ってチンチラを連れて山を下り始めます。
1890年代には近い将来にチンチラが絶滅することが危惧されていたので、一部の人々が保護運動を起こし、1898年にはチンチラ狩りを制限する法律が施行され、1910年にはチンチラ毛皮の主な輸出国のチリ、ペルー、ボリビア、アルゼンチンがチンチラを保護する初めての国際条約に調印していました。
実際にはチンチラ毛皮の価格を上昇させるだけで効力はなかったのですが、この条約によってチンチラを捕まえたり商業的に利用したりすることが禁止されていたので、輸出許可を得ることは簡単なことではありませんでした。
休み休み、直射日光を避け、暑い日にはケージに氷を入れてチンチラたちを冷やし、休むたびに輸出許可を求めに出かけ、1年かけて1匹も死なせることなく山を下りチンチラの輸出許可も手に入れました。
当時、航空便はなかったので、南半球から船で赤道直下の海を渡り、カリフォルニアまでチンチラたちを運ばなければなりませんでした。
1923年に日本国籍の貨物船「あにゅ丸(Anyu Maru)」に乗ってカヤーオ港(Callao)を出発することが決まると、専用の大きな木製のケージを作らせ、中にはチンチラを個別に飼えるように仕切りをつくり、中央には氷を詰める部屋を設けました。
自分の客室にケージを置くことを許されなかったチャップマン氏は作戦を考え、ケージは船倉に積んでもらったものの、チンチラは見送りにきた友人たちに頼んでポケットに入れて出航前の自分の客室に持ち込んでもらいました。
船が出航しかなり沖に出るまで黙って待ってから船長室を訪れ、客室にチンチラを持ち込んだことを明かし、なかなかうなずいてくれない船長に、「もしもチンチラが死んだら船会社を相手どって、多額の賠償金を求めて訴える」と脅して説得し、船倉からケージを出してもらったのだそうです。
暑さとの戦い
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チャップマン氏と奥さんは、それからほぼ1ヶ月の間、チンチラを守るために昼も夜も赤道直下の暑さと戦いました。エアコンのない時代だったので、昼間の船室は地獄のように熱くなり、窓が小さいので夜になってもなかなか室温は下がりません。
ケージに入れる氷はどんどん溶けてしまい、氷の詰め替えに追われ、少しでも氷の効果を持続するために、ケージの上に濡れたタオルをかぶせて乾くたびに交換するなど工夫しました。
カリフォルニア州サンペドロ港に到着
チャップマン夫妻の努力が実を結び、航海中に1匹のチンチラが死んでしまったものの、途中で2匹のチンチラが産まれ、チンチラ12匹を連れて、1923年2月22日にカリフォルニア州サンペドロ港(San Pedro)に到着することができました。
チンチラの産業的繁殖の始まり
その後、飼育下でチンチラを繁殖するために力を注いだチャップマン氏。
チンチラが健康で元気でないと美しい毛質を保てないので、チンチラの健康管理にも気を配り、食事の管理や衛生管理、代表的な病気や予防ケアなどについて111ページの資料にまとめ、後世の毛皮ブリーダーやペットブリーダーへと受け継がれる基盤をつくりました。
チャップマン氏の一番の目的は、新しい毛皮産業の築くためにチンチラを繁殖するというものでしたが、チンチラの素直な気質に魅かれていたことも事実で、自分のペットのチンチラを非常に可愛がっていたのだそうです。
カリフォルニアに到着してから11年後の1934年12月26日にチャップマン氏は他界しましたが、そのとき最初に連れ帰った11匹のうちの数匹はまだ生きていました。
チャップマン氏が連れてきた11匹のチンチラのうち最後の1匹が旅立ったのは、アメリカに到着してから22年後のことだったのだそうです。
捕らえられたときの年齢がわからないので、何歳だったのか正確な年齢はわかりませんが、長生きしたことに間違いはありません。
現在、世界中で飼われているチンチラの大多数は、チャップマン氏がチリでチンチイェロたちと共に捕獲した11匹の血をひいているといわれています。
チャップマン氏の野心がなければ、今、私たちがチンチラと暮らすこともできなかったかもしれません。
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「ザ・チンチラ」(リチャードC.ゴリス 著 / 株式会社誠文堂新光社発行 / 2002.2) |
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「PERFECT PET OWNER’S GUIDES チンチラ 完全飼育」(鈴木理恵 著 田向健一 医療監修 / 株式会社誠文堂新光社発行 / 2017.1) |
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「カラーアトラス エキゾチックアニマルの診療指針」(霍野晋吉 著 / 株式会社インターズー発行 / 1998.12 ) |